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鹿児島地方裁判所 昭和58年(ワ)132号 判決

原告

日高重喜

外二二名

右原告ら訴訟代理人弁護士

牧良平

吉岡寛

大嶋芳樹

被告

右代表者法務大臣

遠藤要

右指定代理人

安齋隆

外一八名

主文

一  原告らの請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告らに対し、別紙原告別請求金額一覧表記載の各金員及びこれに対する昭和五四年一〇月一日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  第1項につき、仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  屋久島の自然環境

屋久島は、九州本土の南端佐多岬の南方約六〇キロメートルの洋上に位置する山岳島である。東西二八キロメートル、南北二四キロメートル、面積五〇三平方キロメートルの小島であるが、島の大部分が山岳より成り、その山容は、九州第一の高峰宮之浦岳(標高一九三五メートル)を始めとして、九州第六位までの高峰を独占して海上に屹立している。山岳は、海浜に迫って平地に乏しく、とりわけ西部山岳地帯は急峻な山地が一気に海に落ち込んでいる。山地の地質は全体が風化花崗岩から成つているため山脈は脆く、台風の直撃地域にもあたり、風雨による被害を被ることが多い。年間降雨量も、平地で三〇〇〇ないし四〇〇〇ミリメートル、山岳部では一万ミリメートルにも達することさえある。

2  災害の発生

屋久島地方は、昭和五四年九月二九日から翌三〇日にかけて台風一六号の接近による風雨にさらされつつあつた。上屋久町永田地区は、その中央を永田川が貫流し、地区東端を流れる土面川が永田川河口でこれに合流しているが、同地区では、同月三〇日午前一時過ぎころには未だ風雨も通常の台風よりも弱い位であつた。ところが、約一時間後の午前二時過ぎ、地区東側に位置する一〇数戸の民家では突然ゴーという音とともに土石流に襲われた。右土石流(以下「本件土石流」という。)は、土面川上流約4.6キロメートル付近の国有林伐採跡の急斜面が崩壊した(別紙図面2、4記載のA地点、以下「A崩壊地」といい、この崩壊を「A崩壊」という。)ことにより発生したものであるが、発生源の土砂石のみならず伐採中に渓底に投棄又は放置された大小多量の木材、伐根、立木、渓流に堆積した土砂石等をまき込みながら、これらが一団となつて土面川の渓谷を走り下つた。そのため、渓谷左右の斜面の表層土は一五ないし二〇メートルの高さにまで削りとられ、かつ、川幅は数倍にも押し拡げられた。平地部に達した土石流は川から溢れて両岸の農地、果樹園等を襲い、その一部が住居地域をも直撃したものである。右土石流の直撃により民家一二棟が流失又は全壊し、六棟が半壊若しくは一部損壊した。土面川と永田川の合流点付近の地域では一瞬のうちに県道上も急流と化し、全半壊を免れた民家も床上1.5メートル以上も泥水に没した。また土面川を下りきつた土石流は、たちまち永田川河口に堆積して永田川の流れをも塞ぎ止める結果となつたため、永田川及び土面川の流れが地区のほぼ全域に浸入し、床上浸水一三三棟、床下浸水八〇棟の被害(以上の災害を以下「本件災害」という。)をもたらす結果となつた。

3  責任原因

(被告の伐採行為等に基づく責任)

(一) 山地の崩壊原因についての一般論

土地は、その傾斜が急であればあるほど崩れ易く、また斜面に繁茂する樹木を伐採すれば当該斜面はなお崩れ易くなる。したがつて、急斜面の樹木を伐り過ぎれば山地の崩壊が容易に起こる。さらに、脆い地盤、多量の降雨という条件が加われば、崩壊及び土石流発生の危険性は更に増大し、林道の開設等、山地に人工的変更を加える場合も同様である。

(二) 屋久島山岳地の特殊性

屋久島特にその山岳地帯は全国一の多雨地帯であり、山地の大部分は風化花崗石から成つているため、地盤は脆く地形は急峻である。屋久島は、その面積五〇三平方キロメートル中、約76.5パーセントの三八五平方キロメートルが国有林である。同島の国有林の大部分は、屋久杉に代表される文化的にも貴重な原生林として太平洋戦争中でさえその伐採は控えられ、保護されてきたものであるが、戦後の経済優先主義は右原生林の管理にも及び、単なる木材供給源として取り扱われることとなつた。殊に、昭和三〇年代半ばからは高度経済成長政策の進展とともに、木材供給量の大巾増加が計られ「生産力増強計画」の下に、同国有林の林相を大きく変えるほどの急激かつ大規模な伐採が行われた。このような伐採事業は、屋久島山系の外郭をなし、各集落の背後に位置する山々(いわゆる前岳)の森林についても同様に進行し、この部位が広範に裸地化された結果、山地の崩壊、土石流の発生は飛躍的に増加し、その大部分が伐採跡地に集中して発生した。そのため、森林の伐り過ぎがその主な原因であることは、昭和三〇年代に入るころから周知のこととなっていた。

(三) 土面川流域山地の特殊性

本件の土石流の発生源となったA崩壊地は営林署事業区区分によれば、上屋久事業区五九林班に属し、同林班の南側林班界に沿つた土面川上流渓谷がほぼ尽きるところ、標高にして海抜九〇〇メートルから九五〇メートルの間に位置している。崩壊範囲は、約三〇〇平方メートル、崩壊地点付近の山腹の傾斜度の約三五度、南北西の三方が更に急傾斜地に連なり、特に北側斜面は伐採不能の険阻地に接している。土面川流域の地質は、河口付近を除き全てが風化花崗石であり、標高六〇〇メートル以上の流域の斜面の約半分は三〇度以上の傾斜を有し、本件の土石流の発生源となつたA崩壊地を含む土面川支流域に限つてみれば、その全体が三〇度以上の急傾斜地及び険阻地である。

(四) 土面川流域山地の伐採の進行

上屋久事業区五八、五九林班の国有林は、上屋久営林署が鹿児島林産株式会社に立木のまま売り渡し、同社が昭和三八年ころから昭和五〇年ころまで伐採を続けた。その伐採は、下流域から林道の開設を伴いつつ上流域に向つて進行し、広域皆伐方式をもつて行われたが、これは被告の承諾に基づくものであつた。その結果、山地の崩壊、土石流の発生箇所も徐々に増加し、渓床に堆積して渓底を上昇させ、大規模な洪水又は土石流災害の発生条件を備えつつあつた。そこで、永田地区住民は、皆伐による水害発生を危ぶみ、上屋久営林署に対して度々皆伐方式の是正を申し入れたが、ことごとく無視されてきた。

右のとおり、本件災害の発生は、被告において十分に予見可能であった。

(五) 山地の開発、伐採における一般的注意義務

一般に山地の開発、森林の伐採を行う場合には、当該山地の崩壊、土石流の発生等による災害を防止するため、当該山地の地理的、気象的条件に応じ、相応の保護樹帯の残置、治山ダムの設置等をなして災害を未然に防止する注意義務がある。熊本営林局においても、昭和五一年保護樹帯配置に関する内規を定め、渓流沿いに設置する保護樹帯については、隣接する河川、渓流に対し土の流失崩壊のおそれがある箇所にあつては、渓流の両岸からそれぞれ約三〇メートルを基準として設置すべきものとし、現地の地形地質並びに危険度に応じてその幅員を調整しつつ設置すべきことを指示してる。また、林道沿いに設置する保護樹帯についても同様の基準を定めている。

(六) 土面川流域開発における注意義務

戦後の屋久島国有林開発事業の進行に伴い、皆伐跡地の崩壊は随所に発生し、本件災害以前にその数は四〇〇〇箇所を超えるほどであつたのであり、伐採による崩壊、土石流発生の危険は十分に予測されたのであるから、屋久島でも最も急峻な山岳部に属し、更に危険度の高い条件を備えた永田川及び土面川流域の林木の伐採に当たつては、その危険性に応じて一伐区(皆伐対象地の単位区域)の範囲の縮少、禁伐区の大巾な設置、保護樹帯の幅員の拡大、予想される流出土砂を防止するに必要な規模の治山ダムを設置し、また、伐採、集材手段の近代化に伴い大量に発生する枝葉など樹木の不要部分の処理方法についても十分な配慮をして、本件災害を未然に防止する注意義務があつた。熊本営林局作成の屋久島国有林第三次施業計画(五八、五九林班の伐採も、この第三次施業計画の一部として行われた。)の施業方針大綱にも「集中豪雨や台風が常襲する当地方において、その施業は国土保全及び水源かん養上重要な影響を与える。特に局地的な集中豪雨等に対する保安効果を促進するため、努めて伐採箇所を分散し、伐採面積を縮少」すべきものと定めている。

(七) 被告の注意義務違反

被告は、土面川流域の前記危険性に応じ、一伐区を小規模にし、群状択伐方式の採用を考慮すべきであつたにもかかわらず、収益拡大という経済的理由にとらわれ、実際には広域皆伐方式(一伐区の面積が二〇ヘクタールにも及ぶ皆伐方式)を採用し、五八、五九林班においては最大面積二〇ヘクタールの制限さえ無視した。また、被告は、特に急峻な山域である五九林班国有林につき、禁伐区を大幅に設定して災害防止措置をとるべきであつたにもかかわらず、険阻地のみを作業不能を理由に除外しただけであった。保護樹林については、現地の地形地質並びに危険度に応じ、基準の三〇メートル幅を拡大調整して稜線及び渓流両岸沿いに設置すべきであつたが、実際には稜線沿いに僅かに残置しただけで、渓流沿いの保護樹帯については設置されてもいなかつた。被告は、本件の土石流の発生以前に土面川渓谷に治山ダムを設置してはいたが、このダムは、発生することが当然に予測される大規模な崩壊、土石流を防止するに足る規模と設置個数ではなかつた。五九林班の伐採においては、倒された樹木はA崩壊地から約五〇〇メートル下流の地点に集められ、そこで枝打ちされた枝葉等の不要部分は同地点直下の土面川渓谷に投棄された。そのため、長期間に及ぶ伐採期間中、投棄された枝葉は同地点の渓谷にうず高く堆積して降雨時の流水を妨げ、本件の土石流の主要な一因となつた。

(八) 違反行為の結果としての土石流の発生

土石流の発生機構には、(一)山地崩壊の発生が同時に土石流に発展するもの、(二)崩壊によつて供給された大量の土砂石が一旦渓流に堆積し、それが急激な出水によつて土石流に転化するもの、(三)多量の巨礫や流木を含んだ渓流堆積物が流水のダムアップを起こし、それが決壊して土石流となるもの、の三つのケースがあるとされている。本件の土石流は、主として右(一)のケースによるとされているが、前記違反行為の内容からみて、(三)のケースも複合して発生したものであることが推測できる。すなわち、急斜地の皆伐によつて保水能力の減少した表層土が降雨による多量の水分を吸い込むことによる荷重の増加と剪断抵抗(斜面の摩擦力)の減少によつて更にその保持力を失い、そのうえに前記枝葉処分によつて生じた堆積物によるダムアップによつて流れを妨げられた水が表層すべりの引き金となり、これが右堆積物でできたダムの決壊を伴つて本件土石流に発展したものと推測される。そして、一旦発生した土石流は、渓流沿いの保護樹帯にも砂防ダムにも妨げられることなく、土面川渓床の急傾斜に助けられたうえ、数年前から五八、五九林班の広域皆伐によつて発生し続けていた崩壊及び土石流の結果として、渓床に堆積しつつあつた土砂その他の渓底堆積物を巻き込んでかえつてその破壊力を増しつつ河口まで下り、本件災害をもたらす結果となつた。

(公の営造物の管理瑕疵に基づく責任)

本件災害前に上屋久営林署が土面川に設置していた治山ダムは、被告の管理する公の営造物である。治山ダムは、その性質上これが設置された河川の自然条件及び流域の開発状況に応じて予想される流出土砂を防止するに足る性質、規模を備えているべきであり、前記違反行為の状態からして容易にその発生が予想された筈の本件の土石流によつて完全に破壊されたことは、その本来備えるべき安全性を欠いていたものであるから、管理の瑕疵があつたものである。

以上により、被告は、国家賠償法一条一項、二条一項によつて原告らの被つた後記損害を賠償する責任がある。

4  損害

原告らは、土面川河口付近に土地、家屋を所有し、若しくは居住していた者又はその家族であるが、本件災害によつてその所有又は居住する土地家屋の流失、一部損壊、床上浸水、家財道具等の損壊、農林作物の損壊、営業用商品その他の流出等により多大な財産的損害及び精神的苦痛を被つた。右の損害のうち、所有土地の流失に関しては、本件災害後におおむね復元あるいは補償、代替地供与等が行われたが、右以外の損害については、原告らはなんらの補償も受けていない。原告らは、受けた損害のうち、別紙原告別損害一覧表記載のとおりの賠償を求めることができるものである。

5  よつて、原告らは被告に対し、別紙原告別損害一覧表記載の各金員及びこれに対する不法行為の後である昭和五四年一〇月一日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求の原因に対する認否

1  請求の原因1の事実は認める。

2  同2は事実中、原告ら主張の日時における屋久島の気象状況、国有林の一部の損壊状況及び土面川流域における本件災害の発生についてはいずれも認めるが、その余の事実は争う。

3  同3の事実は争う。

4  同4の事実は不知。

三  被告の主張

1  屋久島における国有林の管理経営

屋久島の約九七パーセント(約四万八五〇〇ヘクタール)は森林原野であるが、そのうちの約七九パーセント(約三万八五〇〇ヘクタール)が国有林であり、国有林を取り巻くように民有林(約一万ヘクタール)がある。国は、大正一〇年森林経営を進めるに当たつて、地元住民のそれまでの入会利用等をも考慮して、民政安定、生計の維持向上等地域の発展に資するため、(旧)農商務省山林局通牒により「屋久島国有林経営の大綱」(以下「大綱」という。)を定めた。大綱の主要な内容は、(一)前岳地域の国有林については、そのうちの約七〇〇〇ヘクタールについて委託林(のちに「共用林野」となる。)を設定して、地元住民に自家用の薪炭材を譲渡するほか、稼業用としても必要な薪炭材を特売することにより生業の便宜をはかり、ゆくゆくはその一部に部分林(国有林は地区住民が造林し、その収益を造林者と国が分収する制度)を設定するとともに、開墾に適する箇所は貸付けを行うこと、(二)奥岳地域については、この地域で国が丸太の生産及び跡地の造林を行う場合には、できる限り地元住民に就業の場を提供すること、(三)屋久島で最も不便を託つている道路については、地元住民の便宜を考慮して国においてこれを施設するほか、島の周辺道路の開発についても考慮することというものであつた。このように、屋久島の国有林とりわけ委託林を含む前岳地域の国有林は、地元住民の生活と福祉の向上をはかることを目的として管理経営することになり、現在もこの方針を基として管理経営している。屋久島国有林の屋久杉天然林は、大正一三年に国の天然記念物に指定されることとなり、昭和三九年には霧島屋久国立公園として約一万八三〇〇ヘクタール(国有林の四八パーセント)が指定され、厚生省との協議を経て特に伐採を禁止し保護すべき区域を約六一〇〇ヘクタール(国有林の一六パーセント)に拡大することとなつた。また、昭和四四年には更に学術参考保護林等として約一六八八ヘクタールを加えるとともに、昭和五〇年には約一二一九ヘクタールを原生自然環境保全地域に指定したことにより、本件災害発生当時の昭和五四年時点では、約七九〇〇ヘクタール(国有林の二一パーセント)が特別に禁伐区域として保護されている。このほかにも奥岳地域を主体として、自然環境の保全及び国土の保全等のため択伐等により施業を規制している区域が約一万五三〇〇ヘクタールあり、屋久島の国有林において何らかの形で施業を規制している区域は、合わせて約二万三二〇〇ヘクタール(国有林面積の約六〇パーセント)にも及んでいる。

2  本件災害の原因

(本件台風の特性及びこれがもたらした異常豪雨の実態)

(一) 鹿児島地方気象台は、本件台風(昭和五四年台風第一六号)を概略次のように捉えている。

(1) 気象概況

ア 本件台風は、カロリン諸島付近にあつた熱帯性低気圧が九月二三日に台風となり、二六日朝から速度を遅くして北上し、二九日夕方に向きを北北東に変え、三〇日朝に種子島の南端をかすめ、同日夕方には四国の室戸市付近に上陸したもので、この間、強い勢力を保ち奄美大島、種子島、屋久島、大隅半島等に強い風雨をもたらした。

イ 黒潮本流に沿つて北上したため勢力が強く、九州の東を通過するまでレーダー観測による眼形がはつきりしていた。

ウ 偏西風の強風軸が北緯三六度から四〇度付近にあつて緯度が高かつたため、九月下旬の台風としては東方への転向のカーブがゆるやかであり、また、太平洋高気圧が東海上から日本付近に張り出していたため北上の進路を阻まれ、しばしば停滞気味になるなど移動速度が非常に遅かつた。そのため奄美地方では台風をとりまく厚い雨雲に長時間おおわれ、長期間暴風雨が続いた。

(2) 被害状況

台風がゆつくり北上したため奄美地方では九月二八日から二九日にかけて被害が相次いで発生した。その後台風が北上するにつれて二九日夜から三〇日早朝にかけて熊毛地方で山崖崩れをはじめ大きな被害が発生した。台風は更に北上して県本土に近づいたので、大隅半島を中心に三〇日午前中被害が発生した。

(二) 小杉谷観測所で測定した雨量は、別表1のとおりであるが、同観測所は屋久島電工株式会社が小杉谷取水口に設置したもので、島の中央やや東部の海抜六九七メートルの地点に位置している。

(三) 本件台風が屋久島に及ぼした影響

(1) 本件台風の進路

九月二三日に発生した本件台風は、徐々に北上し、屋久島には二六日ころから風雨の影響を与えはじめ、二九日夜から三〇日朝にかけて同島の南方海上から東方海上に向けて通過した。

(2) 降雨

屋久島では、本件台風の影響で二六日から三〇日まで降雨があり、とりわけ二八日と三〇日には特に集中的な豪雨があつた。これを具体的にみると、屋久島北東海岸部の屋久島測候所では、五日間の全雨量が442.5ミリメートル、二八日が159.0ミリメートル、三〇日が117.0ミリメートルであり、特に、二八日四時から八時までと二九日二二時から翌三〇日四時までに集中的な豪雨があつたことが認められ、また、同島内陸部の小杉谷観測所では、五日間の全雨量が1210.0ミリメートル、二八日が519.5ミリメートル、三〇日が297.5ミリメートルであり、特に二八日四時から一五時までと二九日二二時から翌三〇日四時までに集中的な豪雨があつたことが認められる。このことから、本件台風による降雨は二つの豪雨のピークがあつたことが特徴であり、また、海岸部と内陸部では後者に約2.7倍程度の雨量があつたと認められる。内陸部の高山地帯に雨量が多いのは、本件台風に特有のものではなく、屋久島のような海上に独立した山岳地形の特色であると考えられる。

(3) なお、小杉谷観測所とその西側内陸部の上流域との雨量を比較すると、次に述べるとおり、後者により多量の降雨があつたことが明らかである。すなわち、この比較は、右観測所地点における流量測定により行うものであるところ、同地点を流れる安房川の流量を実際に観測して得られたハイドログラフ(時間流量曲線)との同所における降雨量をもとに算出して得られた推算ハイドログラフとを比較すれば、前者の流量が九月二九日一五時から二三時までの間で約2.5倍、三〇日零時から五時までの間で約1.5倍の数値を示しているからである。

(土面川及び永田川流域における本件洪水時の降雨量)

土面川及び永田川流域(以下「本件地域」という。)には雨量観測所はないが、同地域の地形等と前記の事実を総合すれば、右両河川の氾濫(以下「本件洪水」という。)時の同地域の雨量はおよそ次のとおりであり、異常なまでの集中豪雨があつたといえる。

(一) 本件地域を概観するに、その集水域は屋久島北西部の海岸から同島中西部を南北に縦走する稜線の分水嶺までで、この斜面は西から東へかなり急な昇り傾斜をなしており、また、右分水嶺をなす稜線は、同島北部の標高907.9メートルの志戸子岳から1165.2メートルの吉田岳、1409.3メートルの坪切岳を経て一八八六メートルの永田岳に連なるもので、北から南にかけてかなり急に高くなつており、結局、本件地域は概略北西から南東にせり上がつている地形である。また、この地域の面積の大半は前岳地帯の国有林であり、そのうち標高六九七メートル以上の地域がかなりの部分を占めている。なお、本件地域の南東に位置する宮之浦岳の東側は小杉谷観測所の上流域にあたり、この両地域は比較的近接した位置にあり、また、屋久島測候所は本件地域から東方約二〇キロメートル離れたところに位置している。

(二) ところで、地域による降雨量の差には、前述の標高差のみならず、急激な上昇気流があるか否かも大きな影響を与えることが明らかとなつている。

これは、急激な上昇気流があれば、気温及び気圧が急激に低下して空気の水分含有能力が減少することによるものであり、収斂性降雨といわれている。また、この現象は風が強いほど、地形が急なほど強く現われる。

そこで、本件地域において、本件洪水時に、この収斂性降雨の現象が生じたか否かであるが、

(1) 右(一)に述べた本件地域の地形では、北西の風を受けた時に最もよく現われることは明らかであるが、稜線の東側で生じた上昇気流による雨雲も稜線を越えてしばらくの間は雨を降らせるのであるから、結局、稜線の東側斜面に上昇気流を起こす北東の風から北及び北西の風にかけてのこの現象が生ずると考えられること、

(2) 台風時の風はその中心部に向かつて反時計回りに吹き込むのであるから、当時の風向は、本件台風の中心とそこからの方位及び距離を考慮し、かつ、実測された屋久島測候所の風向を考慮して推測するほかないものというべきところ、本件台風は二九日夜から三〇日朝にかけて屋久島の南方海上から東方海上に移動したため、その中心からの方位も刻々と変化したと認められるうえ、風向観測地点である屋久島観測所と本件地域とは東西に約二〇キロメートル隔たつているため台風の中心から右両地点への方位も相当異なつていたと認められるのであるから、本件地域では屋久島測候所の風向よりかなり早い時期に北東、北、北西の風に移行していたはずであること、

(3) また、屋久島測候所における風向は、二九日二四時までが東南東で、その後三〇日五時までがほぼ東、その後北から北北西に移行しているが、一般に背後に急峻な山岳部のある海岸部の風向はその背後の地形に左右され、風が海岸に直角でなく斜めの方向から吹く場合風下が海側へそれ、風上が陸側に寄つてくるのは当然の理であり、右測候所は北北東で海に面し背後には真後から西にかけて急峻な山がひかえているのであるから、同測候所における風向は必ずしも真の風向を表わしているとは言えず、真の風向は、むしろ、もう少し早い時期に北東から北の風に移行していたものと判断されること、

などを総合すれば、本件地域においては、かなり早い時期に北東ないし北・北西の風が吹き、この風に乗つて、黒潮本流上の湿気を十分に含んだ空気が本件地域の斜面を急上昇するのであるから、他の地域の豪雨があつたことは想像するに難くないところである。

(三) 以上に述べたとおり、本件台風がただでさえ豪雨をもたらしたことに加え、本件地域が高山地帯であり、かつ、そこを上昇気流がかけ登つたのであるから、本件地域に異常なまでの集中的な豪雨があつたと結論づけうる。

なお、本件災害発生の翌年である昭和五五年に撮影した空中写真によれば、本件災害時に崩壊したとみられる山腹崩壊は、その殆んどが土面川上流域からその背面に位置する宮之浦川及び永田川流域一帯に集中していると認められること、本件台風時の河川の氾濫は屋久島では土面川と永田川のみであること及び土面川上流域には土石流まで発生したことなどの事情も、本件地域に特に集中的な異常豪雨があつたことを裏付けるものである。

(本件洪水時の土面川及び永田川の流量及び本件災害の原因等)

土面川及び永田川の流量については観測資料がないため推定によつてこれを算出し、右両河川の河口部の満潮時刻並びに本件災害時の状況を検討すれば、以下のとおり、本件災害は洪水によるものであり、土石流とは無関係に発生したものであることが明らかである。

(一) 土面川及び永田川の流量についての推定ハイドログラフは別表2のとおりである。

このグラフは、小杉谷観測降雨量を基礎として作成した右両河川の推算ハイドログラフに、前述した小杉谷観測所における安房川の流量の観測ハイドログラフと推算ハイドログラフの比率を乗じて算出されたものである。

したがつて、土面川及び永田川流域に小杉谷観測所西側上流域と同程度の雨量があつたとして算出されるものであるが、本件地域には異常に多量の豪雨があつたといえるのであるから、現実の流量はこの推定ハイドログラフの数値をかなり上回つているはずである。

このグラフによると、土面川では二九日一四時から増水が始まり、二二時までは毎秒約四〇ないし五〇立方メートルで、その後翌三〇日二時四〇分までは直線的に増加し、二時四〇分にはこれまでの最大値毎秒約一〇三立方メートルとなり、その後わずかに減水したが、再び増水を始め四時には毎秒約一〇七立方メートルの最大値を記録したのち減水を始めたと推定される。一方、永田川については、流域面積は土面川流域に比べて約六倍と広いが、ハイドログラフは、ほぼ同じ形を示し、三〇日の二時四〇分には毎秒約六四〇立方メートル、また四時には毎秒約六六〇立方メートルの最大値を示し、その後減水を始めたと推定される。

したがつて、土面川と永田川の最大流量の出現時刻は殆んど一致している。

(二) 土面川及び永田川の各下流部の河川断面は別紙図面1のとおりであるが、本件台風による豪雨には二つのピークがあつたのであるから、第一のピークによる流水及び第二のピークによる流水のうち河川氾濫直前までの流水によつてかなり多量の土砂が流送され、これが両河川の下流部河道及び河口付近に集積されていたはずであり、したがつて、両河川の氾濫時の河川断面積は現実にはかなり狭少であつたといわねばならない。また、両河川の河口部には発達した砂州があり、これが両河川の流水の流出を妨げている。

(三) また、本件洪水時の満潮時は、一湊港で二九日二三時五六分であり、永田港もほぼ同様と解してよい。

(四) 以上を総合すると、土面川も永田川も、二八日を中心とする豪雨によつて流送された土砂石の堆積により、河口付近の河道断面積を狭められていたところへ、二九日二二時ころから急な増水が起こり、これに河口付近の満潮が重なつたことから、背水作用(下流に設けられた障害物により流下が妨げられて流下水の水位が上昇する作用)が生じ、また、流れの速度の急減により運搬力を喪失して河口付近及びその上流数一〇メートルの河道内に多量の流送土砂石の堆積が起こつたため、河川が氾濫したものであり、この氾濫は、二九日二二時ころから流量の最初のピークである三〇日二時四〇分ころまでの間に起こり、その氾濫状態はその後もある程度継続したものと判断される。そして、本件災害では家屋への浸水が非常に多く、全半壊の家屋も流失するには至つておらず、土面橋の決壊はなく、被災地付近には水が引いた後にも土石流が運搬するような大径石はなかつたのであるから、流域のあらゆるものを一掃するような土石流が被災地を襲つたとは考えられず、本件災害は、河川の氾濫による洪水、あるいは、河川氾濫に必然的に伴う土砂石や流木を含んだ流水によつてもたらされたものと考えられる。その洪水も、降水量の非常に多いピークが二八日と三〇日に二つある異常豪雨に満潮等の自然の悪条件が重なつて発生したものである。

3  山腹崩壊と土石流

(山腹崩壊と土石流の発生原因)

山腹崩壊や土石流発生原因等については、未だ科学的に解明されていない点も多いが、およそ次のとおりである。

(一) 山腹崩壊について

崩壊は大雨や地震、浸食、火山爆発等によつて起こる。これ等の直接的動機となる原因を誘因という。しかし、誘因が襲えばどこでも起こるわけでなく、地質、土壌、地形等の諸条件により発生したりしなかつたり、あるいは発生してもその程度や形態が異なつてくる。このように本来山腹は現象の発生に対していろいろな素地をもつている。このような原因を素因という。崩壊は原因である誘因と素因の多数の条件の組み合わせによつて起こるものである。

ところで、本件災害地の流域の地質は花崗岩類地帯に属しているので、この地帯の崩壊を分類すると次の三つに分けられる。

(1) 浅層(表層)崩壊

山腹斜面の花崗岩類母岩の表層部が化学的に風化してくると、降雨によつてその表層部に疑似的滞水層が形成され、クイックサンド現象(間隙水圧の上昇などの影響を受けて土体内部の摩擦係数が急激に減少する現象)により崩壊が生ずる場合があるがこれを浅層崩壊という。この浅層崩壊は、内地では二〇〇ないし二五〇ミリ程度の降雨により比較的容易に発生するが、その規模は小面積にとどまる。このような岩質条件の箇所は、地表面が裸出すれば表面浸食が促進し、あるいは浅層崩壊が発生する原因となるが、森林によつて被覆されれば表面浸食は殆んど防止され、浅層崩壊も軽減される。したがつて一般に伐採によつて浅層崩壊が発生する可能性は高くなるといえる。

(2) 深層崩壊

花崗岩類の風化細粒土が物理的に移動して山腹斜面あるいは凹地形部に厚く(一メートル以上)堆積しているような箇所では、かなりの豪雨により滞水層が肥大し間隙水圧が異常に上昇して深層から崩壊が発生する場合があるが、これを深層崩壊という。

これは降雨が長時間継続し、量的に内地では三〇〇ミリ以上に達した場合に発生するといわれているが、深層から崩壊するものであるから、地上林木の根系が崩壊を防止する効果はあまり期待できず、森林の有無にかかわらず発生する場合が多い。また、この崩壊が土石流発生の引き金となる場合もある。

(3) 節理崩壊

花崗岩類が動力的な圧力を受け節理(岩石中に発達する比較的一定した方向をもつ割れ目)が発達し、しかもその節理に沿つて岩石が化学的に風化変質している場合にとくに豪雨によつて岩崩壊を発生する。小規模のものもあるがかなりの深層から崩壊する場合もあり、この場合には得てして土石流の誘因になる。節理が発達した岩石は、化学的風化部と硬岩部が局所的に複合しており、崩壊と同時に大径石も細粒砂も共に崩落土砂として流下する。このような崩壊も地上の林木の有無とは殆んど関係なく発生する。

(二) 土石流について

(1) 特性

ア 土石流の流動する形式は、「各個運搬」ではなく「集合運搬」と説明されている。ここに各個運搬というのは、流水の掃流力すなわち河川の流水が河床の土砂を押し流す力で土砂石が各個に流送、運搬される状態をいい、河川の洪水時などの土石の移動がこれに該当する。他方、集合運搬というのは、大小さまざまな土石と水との混合物がそれ自体の重力の作用で一体となつて運搬されるものである。この場合には、水に対する土石の割合がかなり多く、土石と水の混合体が一体となつて斜面を流下するものである。

土石流について、更に詳しく説明すれば、次のとおりである。

土石流の先頭は盛り上つて通常大きな岩塊が集まつており(フロント)、このフロントの後にも大量の土石が続いて流れ、後になればなるほど土石の粒子は小さくなり、礫・砂・泥となり、終りの方は泥を含んだ流れになる。土石流の流れる速さは、主として谷の勾配・形状・土石流の規模及び構成分(土・石・水)の割合など種々の影響によつて異なると考えられている。

土石流の波速は非常に広範にわたるが、一般には毎秒一〇ないし一九メートルの値を示す。砂礫流の流速は毎秒三ないし七メートルの値であることも測定されている。概して土石流は一五ないし二〇度以上の勾配地帯を発生源とし、一〇ないし一五度の地帯を流下し、一二度以下の地帯、特に3.5ないし一〇度の地帯(統計結果では最頻値六度)が停止帯となつている。通常土石流は、停止すると先頭に大径石の堆積を作る。しかし、後続の洪水によりこの堆積は崩されることもあるから確認できない場合もある。

イ 土石流災害は、洪水の氾濫のようにある一定標高以下の地域を広く水没させるものではなく、また徐々に水位が上がる現象でもなく、フロントが急激に襲つてくるものである。したがつて、洪水の氾濫などは、ある程度の時間的ゆとりがあり、本件災害時のように避難することも可能であるが、土石流の場合は避難するための時間を確保できず、地震災害に極めて類似するといわれている。

(2) 発生形態

過去に発生した土石流の調査結果から推測すると、一般的な土石流の発生形態として、次の三つのものがあげられる。

ア 粘土鉱物生成帯の土石流

主として破砕帯・新しい海成粘土地帯・温泉余土及び変朽安山岩地帯に発生する。この地帯の地質は粘土鉱物の吸水性・吸水膨張圧の発生等によつて泥状化し易い特性があるため、降雨等の刺激によつて土石流が誘発される。

また右の現象は地下水との関連もあり、常に水分で飽和した土層を保有する場合が多いので、必ずしも大降雨時に発生するとは限らない。なお、この粘土がリモールド(練返し)されると、ますます泥流状となり地すべり活動にともなつて発生する場合もある。

イ 火山性堆積物からの土石流

土粒子の見かけの比重が小さく、空隙率の大きな、例えばスコリヤ(軽石の一種)堆積層等においては、間隙水圧の上昇にともなつて急激に摩擦係数が低下し、クイックサンド現象を発生し、土石流を誘発する。

ウ 風化細粒子の堆積からの土石流

これも堆積物の空隙率が主な原因となるが、花崗岩類の風化砂土の堆積の場合は、緻密な堆砂構造を示さない場合が多いため花崗岩類の堆積は間隙率の大きな堆積(間隙率三〇ないし五〇パーセント)となる。そのため、長期間の降雨により間隙水圧が異常に上昇し、急激に摩擦係数が低下すると、クイックサンド現象が発生し土石流誘発の原因となる。特に、降雨の継続時間が長く、量も多い場合に発生し、本件土石流もこれが主な原因となつている。

(3) 発生の機構

経験的に把握されている土石流の発生に関係する因子の主なものとして渓谷の勾配・堆積物の蓄積・多量の水の供給の三つがあげられ、土石流はこれらに、その他の因子、例えば岩石の風化の度合・植生の状態・山崩れなどの状態・その他地震・噴火などが複雑にからみ合つて発生するといわれているが、このうち最も土石流の発生を支配する降雨についてみても、降雨が流出し谷底を流れ、あるいは地下を浸透し渓流の堆積物に作用して土石流に至らしめる過程について十分な解明がなされていないのが実情であり、結局、このような概念的な考え方のみでは、現実問題として土石流の発生の具体的な予知は殆んどなし得ないのである。別の見方をすれば、このような条件からは、我が国に存在する殆んどの谷がこれに該当するといつても過言ではないのであり、本件災害発生時の行政及び科学的水準では、土石流発生の予知は極めて困難であつたといわざるを得ない。

(本件洪水時の山腹崩壊と土石流)

(一) 山腹崩壊について

(1) まず、土石流発生の引き金となつたと思われる山腹崩壊をみるに、A崩壊地は、平瀬国有林五九林班ろ小班内を流れる土面川上流の支流(以下「A支流」という。)の最上部、河口より約4.6キロメートル地点にある。このA崩壊地は、その痕跡及び調査結果によると、風化の程度の著しい花崗岩地帯であるうえ、モンモリロナイト等の粘土鉱物の堆積も認められ、また、母岩の相当深部から崩壊しているのであるから、前述の深層崩壊と断定しうる。なお、ここにいう粘土鉱物は、含水し易く排水し難く、含水すれば膨潤し、更に練り返されることによつて、その剪断抵抗等が極度に低下せしめられていく性質を有しており、土石流誘発の原因となるものである。このような母岩の風化状況等の地質構造からすれば、このA崩壊地は伐採造林等による森林の変化とは無関係に、ある時期がきて誘因となる異常な豪雨があると崩壊が発生する地形だつたのであり、本件洪水時の崩壊はいわゆる地形輪廻の一過程としての現象であつたと判断しうる。また、深層部分の風化花崗岩及び粘土鉱物が崩壊の原因となつているのであるから、この崩壊は予測困難な崩壊であつたと判断しうる。

なお、このA崩壊地から土石流が発生したとする確たる論拠はないが、本件災害の翌年に撮影した空中写真の判読と現地調査の結果からはこの崩壊を引き金とし、これがA支流を下るうちに土石流が発生したとの推定が立てられる。

(2) 次に、本件洪水時に生じたと思われる山腹崩壊を全般的にみるに、空中写真によると崩壊は一〇八箇所でありその面積は2.59ヘクタールである。この面積は、土面川流域の国有林面積(約三六五ヘクタール)及びこれに民有林も含めた面積(約五〇〇ヘクタール)に対し、それぞれ0.7パーセント、0.5パーセントであるが、一般に花崗岩類の風化地帯の異常豪雨による崩壊面積率は2.5パーセントないし4.5パーセント程度の値を示していることからすれば、決して大きな値ではない。

また、崩壊地の平均面積は約二四〇平方メートルと比較的小規模であり、更に、これらの崩壊地の殆んどは浅層崩壊であり、その多くは土面川の渓流に達しないところで終息していると認められる。これらの事実は、この地域が豪雨による崩壊に対しかなりの免疫性を有していることを示すものである。すなわち、この地域では度々の豪雨により恒常的に山腹崩壊が発生していること、また崩壊地への植生の侵入も早いことから、山地の母岩そのものが豪雨による崩壊に対してかなりの免疫性をもつていると推定されるのである。

土面川中流域に昭和四六年に設置した治山ダム(別紙図面2、B地点)の堆砂の状況をみても、約八年後の本件災害直前まで殆んど土砂が堆積していなかつたのであり、結局、土面川は安定した渓床であつたといえるのである。また、このことは、土面川流域のみでなく、屋久島全体の特色の一つでもある。

また、これらの崩壊はこの地域全体にわたつており、森林伐採地に未伐採地より多く存在すると認められるが、未伐採地の崩壊は樹木の陰に隠れて空中写真には写し出されないものもあると考えられる。

(二) 土石流の流下及び土砂、流水の流下

(1) 前述のようにして発生した土石流によつて多量の土砂石の流送があつた区間は、最上流のA崩壊地からA支流を経て本流を通る約4.6キロメートルの一本の筋であり、他の支流からの土砂の流出は水に浮く細粒子を除き殆んどなかつたとみられる。

A支流においては渓床堆積物は局所的に凹部に堆積しているのみで殆んど流送され、渓床母岩は裸出し損摩されており、またA支流と本流との合流点から国有林と民有林との境界付近(土面川河口から約二三〇〇メートル)の区間においては、渓床が洗掘されているが、これは、A支流で発生した土石流のエネルギーによつて洗掘されたとみられる。A支流から多量の土砂石が流出した原因は、地質的原因に基づいて永年(数十年以上)にわたつて支流に堆積していた土砂石が、本件災害時の長期間に及ぶ多量の降雨により、土砂石の空隙が雨水で飽和状態になつていたためであり、昭和三〇年代から四〇年代にかけての森林伐採とは殆んど関係のないものである。このことは、現に当地を踏査した結果では、伐採前に発生したと認められる古い崩壊の残留土が残されていることからもいえるのである。

(2) しかし、この土石流は、土面川河口からほぼ二三〇〇(別紙図面2、C地点)ないし一三〇〇メートルの区間の緩傾斜地において、そのエネルギーを次第に消失し、そのフロント部は解体され土砂石を渓床に堆積しつつ消滅した。この土砂石は後続の洪水により乱され、その一部は掃流力により流下したものと推定されるが、下流にはこの土石流で運ばれたとみられる大径石等は認められないことから土石流がこの地点で消滅したことは疑いない。

(3) 土面川河口からほぼ一三〇〇ないし六〇〇メートルの区間では、旧押出し堆積の両岸の洗掘が行われ、流水の掃流力によつて河道浸食が起こり、土砂が洗掘あるいは堆積を繰り返しながら流送されたため、土砂の流送が激しかつたと推定される。その下流の土面川河口からほぼ五〇〇ないし二〇〇メートルの区間では、流下水により両岸の洗掘が行われたと推定される。つまり、土面川河口から一三〇〇メートルより下流区間においては、完全に流水の掃流力による土砂の移動であつたと判断される。

(4) 河口における土砂の流送

河口付近において土砂が堆積した状況及びその原因については、前に述べたとおりである。土面川下流帯の渓床石礫には、必ずしも大径石の存在は認められない。中流部の両岸帯には大径石の露出した状況がみられるが、これは古い押出し堆積が再浸食されて現われたもので今回の増水で移動流下したとの判断は成り立たない。また、土面川河口の土面橋が破壊されていなかつたことからも土石流状で流下したとは考えられない。

(本件災害と土石流及び森林の伐採)

以上のことを総合判断すれば、本件災害、土石流及び森林伐採の関係は次のとおりである。

(一) 土石流は土面川中流部で消滅したのであり、本件災害と直接の関連性はない。土石流消滅後の土砂石の流下は豪雨による河川の流量増加によるものと何ら異なるところはないのであり、本件災害は河川の氾濫によるものである。

(二) 土石流の発生にはA支流上部のA崩壊が一因をなしていると思料されるが、この崩壊は異常豪雨と地質構造によるものであり、森林伐採とは関係がない。

(三) その余の多数の山腹崩壊と森林伐採とが無関係であるとは断定しえないが、その崩壊によつて流出した土砂石は土石流及びその下流に流下した土砂石の主体にはなつていない。

したがつて、山腹崩壊及び土石流について検討しても、原告らの主張するように、本件災害は土石流によるものであり、その土石流は森林皆伐が原因であるとの結論を導きえない。

(森林の流量調節機能と森林の伐採)

森林が洪水のピーク流量を調節し平水時の流量を増大させることは一般によく知られている。この機能は林地の土壌が多孔質であることに負うところが大きいためであり、したがつて森林と森林以外の状況の地域との差は大きい。しかし、この機能においては天然林と人工林との差、また幼齢林と老齢林との差は僅かである。特に豪雨時には、林木の樹冠の保留能及び土壌の貯留能を降雨量が大きく上回るため、林相・樹種・林齢などによる差はもちろん、流域の状態による洪水のピーク流量の差も小さくなる。土面川流域においては後述するような伐採をしたが、その面積は大して広くないうえ、伐採跡地の土壌は荒廃することなく杉の人工林を造成しあるいは天然更新をし、本件災害時には大部分が十数年を経過して一応樹冠の形成が得られていたのであるから、天然林を伐採したことが本件災害時の洪水流量を災害が起こるほど増加させたとは考えられない。このことは上流域の天然林を伐採していなかつた永田川においてさえ河川が氾濫していることからも明らかである。もともと、五八及び五九林班の伐採地を未伐採のままに残しておいたとして得られる流量調節の量と土面川下流の河道断面積とを対比すれば、前者はごくわずかであり、下流の洪水に影響を及ぼすようなものではないのである。

結局、本件洪水は林相・林齢の如何にかかわらず、また伐採の有無とは無関係に発生したものである。

4  五八及び五九林班の森林施業について

(五八林班の森林施業)

(一) 委託林の設定

屋久島の国有林は明治二年の版籍奉還によつて国有林に編入されたものであるところ、編入直後から国と地元住民との間に土地の所有権をめぐつて紛争が続き訴訟にまで発展したが、大正九年に国の主張が認められ国の所有権が確立した。

その後、国有林の経営を進めるに当たつて、地元住民のそれまでの経緯をふまえ、大正一〇年に国は、民生安定・生計の維持向上等地域の発展に資するため、前岳部分の国有林に約七〇〇〇ヘクタールの委託林を設定することとしたものである。永田地区三〇九戸の総代人柴喜三右衛門により大正一二年一二月二三日付けで鹿児島大林区署長((現)熊本営林局長)に委託願いが出され、大正一三年八月一三日永田地区出願人総代柴喜三右衛門と鹿児島大林区署長との間で請書がとりかわされて委託林が設定された。その区域は字平瀬国有林五六・五七・五八・六〇・七三並びに一〇及び一一林班の一部であり、面積は九五六町八反八畝歩であつた。またこの地域の蓄積は七二万一一九七石であつた。契約期間は大正一三年八月から五箇年間であるが、以後共用林野になるまでは五年おきに更新されていた。

(二) 共用林野への名称変更

右に述べたとおり五八林班を含む委託林は昭和二七年からは共用林野と名称が変つたが、現在も「共用林野設定契約書」を五年毎に更新して委託林の方針を引き継ぎ管理経営している。昭和三五年までは前述の委託林に準じた取扱いを行つて来ており伐採した跡地は天然更新を繰り返すことにより、再度地元共用林組合の薪炭材の供給林としていた。

五八年林班約二二二ヘクタールについては昭和一八年から同二六年の間に四回にわたり、約三六ヘクタールを伐採し、跡地は天然更新し再度薪炭共用林野としていた。

(三) 部分林の設定

昭和三六年からは、薪炭材としての広葉樹の需要が急速に減少したことから、地元住民からも、伐採跡地を従来のように広葉樹を天然更新する経営方法を改め、収益が高く就労の場も拡大できる人工造林方式に転換すべきであるという強い要望があり、伐採跡地に部分林を設定することに変更した。このことはまた、木材需要の激増と我が国の森林資源の充実をはかる国の政策にもかなつた当を得た更新方法の変換であつた。このため共用林組合を主体として、上屋久町、屋久町及び鹿児島県により社団法人屋久島林業開発公社が設立された。本林班においては、右公社と熊本営林局長との間に部分林を設定するために、昭和三五年から昭和五二年までの間に伐採した面積は約一七四ヘクタールである。その跡地に造林した杉の生育もよく、地元住民の基本財産として着々とその成果をあげつつある。部分林については右公社並びに地元住民にとって非常に有利な契約内容になつている。なお一伐区の平均面積は約一二ヘクタールである。残り約四八ヘクタールは天然林であり、内約一六ヘクタールは保護樹帯である。また昭和五三年以降は伐採していない。

五九林班の面積は約一四三ヘクタールであり、地形・林況などから木材の生産を主目的とする普通林地として管理経営している。すなわち、昭和四四年に伐採を始め昭和四八年までの五年間に約四三ヘクタールを伐採し、このうちの約三二ヘクタールが人工造林地になつている。したがつて本林班の伐採は五八林班に接する下流部分の伐採に留めており上方の約一〇〇ヘクタール(林地面積の約七〇パーセント)は天然林として残つているだけでなく、渓流並びに主要な稜線には保護樹帯を設置している。なお一伐区の平均面積は約一一ヘクタールである。

五八林班の共用林野の立木は、昭和三五年以降は永田共用林組合と上屋久営林署長との間で締結している共用林野設定契約にもとづき、永田共用林組合からの買受申請により、上屋久営林署長が永田共用林組合に直接払い下げていたものである。五九林班の立木は、地元産業を育成する目的もあり、鹿児島林産と上屋久営林署長との売買契約によつて立木のまま販売をしていたものである。なお昭和四九年以降は販売していない。

国有林では、山地に起因する災害を未然に防止するために、従前より治山治水緊急措置法(昭和三五年三月三一日法第二一号)に基づき計画的に治山事業を実施してきた。治山事業は災害を受けた山地の復旧が主体であるが、あらかじめ山地災害の危険が予想される箇所にも実施している。土面川流域においても国有林内の渓床に三基の治山ダム(堰堤)を計画し、そのうち一基を昭和四六年に設置した。その後本件災害発生前に本流域に崩壊はあつたが、いずれも小面積の浅層崩壊で、この崩壊地が拡大するおそれはなく自然に復旧するものであつた。このことは右治山ダムに土砂石の堆積が殆んどなかつたことによつても明らかである。したがつて、あとの二基については渓流の荒廃状況をみて設置することにしていたが、本件災害前までは渓流の荒廃はみられず設置の必要性は認められなかつたものである。また国有林の下流の土面川河口から一八九〇メートルの区間の民有地については、本件災害前の昭和四七年及び同四九年に鹿児島県は砂防指定地に指定し、同県が砂防ダム二基、及び流路工一箇所を設置していたが、本件災害前に土砂の堆積は少なく、このことからも下流域においても安定した流域であつたといえるのである。

5  結論

以上述べたとおり、本件災害は土石流による災害ではなく、本件台風による異常豪雨が土面川及び永田川に急激な流量をもらしたことと、右両河川の河口部の満潮時が右流量増加時に重なつたこと等が原因となつて右両河川が氾濫したために生じた洪水による災害すなわち不可抗力による災害であることが明らかであるから、本件災害につき、被告にはなんら責任はない。

四  被告の主張に対する原告らの認否

被告の主張は争う。

第三  証拠〈省略〉

理由

第一当事者間に争いのない事実

請求の原因1の事実及び同2の事実中、原告ら主張の日時における屋久島の気象状況、国有林の一部の損壊状況及び土面川流域における本件災害の発生については、当事者間に争いがない。

第二本件災害の発生

右争いのない事実に〈証拠〉によれば、屋久島地方は、昭和五四年九月二六日から同月三〇日深夜にかけて台風一六号の接近による集中豪雨に襲われ、上屋久町永田地区では同月二九日午後一一時三〇分ころから一部家屋への浸水が始まり、同月三〇日午前〇時ころ県道へ水が流れ込み、同日午前一時過ぎころ山鳴りが聞こえ、一時半ころになると土面川の流水に激しい音を伴うようになって県道上の水かさが膝上近くまで上昇し、再び異常な山鳴りがした二時ころから数分後にゴーという音とともに急に水かさが増して一挙に浸水し、家屋の全壊一二戸、半壊三戸、一部破損三戸、床上浸水一三三戸、床下浸水八〇戸の被害が生じたが、死者、重傷者は一名も出なかつたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

第三本件災害の原因

本件災害の直接の原因が土石流によるものが一般的な洪水によるものかはさておき、〈証拠〉によれば、本件災害時に土面川上流域で土石流が発生したことが認められ、原告らは、国有林伐採により本件土石流が発生し、これにより本件災害が惹起された旨主張するので、以下、本件土石流の発生原因につき検討したうえ、被告の国有林伐採行為と本件災害の発生との間の因果関係の有無を判断する。

一風化花崗岩地帯における崩壊の特性

〈証拠〉によれば、屋久島土面川流域における地質は、風化花崗岩類地帯に属し、このような地質地帯における崩壊現象には次の三つのタイプがあることが認められる。

1  浅層崩壊

山腹斜面の花崗岩類母岩の表層部が化学的に風化してくると、降雨によつてその風化表層部に疑似的滞水層が形成され、クイックサンド現象により発生する崩壊であり、二〇〇ないし二五〇ミリ程度の降雨により比較的容易に発生するが、その規模は、深さ0.2ないし0.5メートル程度で小面積にとどまる。斜面に育成された森林等が伐採されても、ただちに造林されれば表面浸食が発生することはないが、伐採後五ないし一〇年程度経過すれば旧根系の腐食等により浅層崩壊が発生し易い。

2  深層崩壊

花崗岩類の風化細粒土が物理的に移動し、山腹斜面あるいは凹地形部に厚く一メートル以上堆積しているような箇所では、かなりの豪雨により滞水層が肥大し、間隙水圧が上昇して深層から崩壊する現象であり、これは降雨が長時間継続し、量的に三〇〇ミリ以上に達した場合に発生するが、深層からの崩壊で林木根系の崩壊に対する物理的効果はあまり期待できない。この崩壊は渓床堆積の状況等の地形的な要因とも関連して、場合によつては土石流発生の引き金となる場合がある。

3  断層、破砕崩壊

花崗岩類が動力的な圧力等を受け節理が発達し、しかもその節理に沿つて化学的に風化変質している場合、また局所的に破砕作用を受けている場合において、豪雨等により深層から崩壊する現象であり、形状的には小規模のものもあるが、かなりの深層から崩壊する場合もあり、このような場合は土石流の引き金となることが多い。節理の発達した岩は、化学的風化部と硬岩部が局所的に複合しており、崩壊と同時に大径石も細粒砂も共に崩落土砂として流下するので、森林による崩壊防止効果は期待できない。

二土石流の発生、流下、停止、予防について

〈証拠〉によると、次の事実が認められる。

1  土石流の発生形態

土石流の発生形態としては一般的に次の三つに分類されている。

(一) 粘土鉱物生成地帯の土石流

主として破砕帯、新しい海成粘土地帯、温泉余土、変朽安山岩地帯に発生するが、これらの地帯には粘土鉱物が生成され、その吸水性、吸水膨張圧の発生等によつて泥状化し易く、降雨等により誘発されることがある。地下水との関連もあり、常に水分で飽和した土層を保有する場合が多く、必ずしも大降雨時に発生するとは限らない。

(二) 火山性堆積物からの土石流

土粒子の見かけの比重が小さく空隙率の大きな堆積層等においては間隙水圧の上昇に伴つて急激に摩擦係数が低下し、クイックサンド現象を発生して土石流を誘発する。

(三) 風化細粒子の堆積からの土石流

堆積の空隙率が主な原因とするが、花崗岩類の風化砂土の堆積の場合、必ずしも緻密な堆砂構造を示さない場合が多いので間隙率の大きな堆積となり、長期的降雨により間隙水圧が異常に上昇し、急激に摩擦係数が低下してクイックサンド現象を発生し、土石流の引き金となる。これは、急勾配渓床の渓床堆積内部から誘発される場合もあり、渓床堆積条件さえ満たしておれば、山腹の小崩壊発生によつても誘発されるが、特に、降雨の継続時間が長く量的にも多い場合に発生する。

右の三つが一般的な土石流の発生形態であるが、花崗岩類地帯で平均勾配一五度以上で五ヘクタール以上の流域面積において多く発生している。

2  土石流の流下、停止

土石流は、流下の前面に大径石を含むフロントを形成しつつ流下するが、その衝撃力は同一の水深の清水圧の五ないし七倍のものがある。土石流の発生源は、一五度ないし二〇度以上の勾配地帯であることが多く、一〇度ないし一五度の地帯を流下し、一二度以下の地帯が停止帯となつている。また、土石流の停止、堆積は、上流勾配と下流勾配との比が0.5ないし0.75以下の場合や渓床幅の変化度合が二倍以上になつた場合に生じている例がある。

3  土石流の予見、予防

土石流は、特定の地質地帯に発生する蓋然性が高いが、これを予見することは非常に困難であり、せいぜい技術研究員による精密調査を経て数十年単位の幅をもつた将来における発生を予想しうるに過ぎず、その予防も治山ダムや砂防ダムの設置等により、ある程度の被害の軽減はできるが、土石流の巨大なエネルギーを考慮すると、これも完全ではなく、鋼製のダム設置等が実験的になされるなど、試行錯誤の状況にある。

三本件災害時における降雨状況

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められる。

1  台風一六号の発生

昭和五四年九月二三日、カロリン諸島付近にあつた熱帯性低気圧が台風一六号となり、沖の鳥島の西方海上を北西に進んで同月二六日一五時には沖大東島の南西海上で中心気圧九二〇ミリバール、中心付近の最大風速四五メートルとなつて最も発達した。台風は、二九日午後に奄美大島と喜界島の間を通過し、同日夕方には向きを北北東に変え、徐々に速度を増して三〇日朝に種子島の南端をかすめた。この台風は、黒潮本流に沿つて北上したため勢力が強く、日本上空を覆う太平洋高気圧のため北上を阻まれ、沖縄の南海上から奄美大島付近を通過するまで移動速度が非常に遅く、奄美地方を中心に暴風雨の継続時間が長く、屋久島には三〇日午前五時五〇分に最も接近した。このため、種子島、屋久島地方には、二八日午後四時五〇分に大雨・洪水警報、強風・波浪注意報が、二九日午後七時一五分に暴風雨・洪水・波浪・高潮警報が発令されたが、それ以前の二六、二七日にも大雨・洪水注意報が発令されていた。

2  土面川、永田川流域における降雨量の推定

本件災害時における土面川、永田川流域における降雨観測記録はないが、屋久島における他の地域の降雨観測結果から次のとおり類推することが可能である。

(一) 屋久島測候所(標高三六メートル)及び小杉谷測候所(標高六九七メートル)における観測データからの類推

屋久島測候所及び小杉谷測候所の日雨量は、昭和五四年九月二六日が、それぞれ六〇ミリ、107.5ミリ、同月二七日がそれぞれ24.5ミリ、一〇六ミリ、同月二八日がそれぞれ一五九ミリ、519.5ミリ、同月二九日がそれぞれ81.5ミリ、179.5ミリ、同月三〇日がそれぞれ一一七ミリ、297.5ミリであり、本件災害当日の同月二九日の日雨量をみる限り特に予測不可能な異常豪雨であつたとはいえないが、これを連続雨量としてみた場合、小杉谷において同月二六日から三〇日にかけての五日間で合計一二〇〇ミリ以上の値を示しており、これは過去二二年間で三回出現している程度の稀にみる連続雨量である。

また、右五日間の連続雨量を屋久島測候所と小杉谷測候所で比較した場合、前者のそれは四三〇ミリで、後者のそれは一二一〇ミリであつて、小杉谷における雨量が屋久島の雨量の約3.5倍となるが、これは、標高の増加とともに降雨量が増加することを示すものである。

したがつて、標高六九七メートルに位置する小杉谷測候所より高位置にある土面川流域(標高七〇〇ないし一一〇〇メートル)及び永田川流域(標高七〇〇ないし一九〇〇メートル)においては、小杉谷における雨量と同程度がそれ以上の雨量があつたものと推定される。

そして、屋久島測候所及び小杉谷における降雨ハイエトグラフ(降雨量のレートの時間的変化を示したグラフ)の形状は殆んど類似しており、昭和五四年九月二八日四時から一六時にかけて第一のピーク雨量があり、同月二九日一八時から三〇日四時にかけて第二のピーク雨量が現われていることが明らかであつて、これを小杉谷の観測値からみると、二八日五時から一一時にかけての六時間で二五五ミリ、二九日二二時から三〇日四時にかけての六時間で二五六ミリの各降雨量があり、二四時間雨量について計算すると、第一のピークは二八日零時から二四時にかけて519.5ミリの雨が降り、約一八時間後の二九日一一時から三〇日一一時までに第二のピークが現われ、四四七ミリの雨が降つていることが分かる。

(二) その後における観測データからの類推

昭和五九年度において、土面川流域内に設置された標高一〇〇〇メートルの位置にある観測所(以下「A観測所」という。)及び同流域内の標高七〇〇メートルに位置する観測所(以下「B観測所」という。)と小杉谷測候所で実際に観測された降雨量をみると、A観測所における年間雨量は一万〇四一三ミリ、B観測所におけるそれは八〇九二ミリ、小杉谷測候所では七三六〇ミリとなつており、いずれも驚異的な雨量を示し、これを連続雨量でみた場合、A観測所における連続雨量は、小杉谷測候所におけるそれの数倍の値を示している。

右観測結果によると、通常土面川流域では標高が高くなるほど降雨量が増加する傾向がみられ、特に源流部における月降雨量、一連続雨量は、ともに小杉谷測候所より相当多いことが窺がわれる。

以上に照らして本件災害時における土面川流域の降雨量を推定すれば、本件災害時における前記小杉谷測候所の観測雨量を相当上回る多量の雨量であつたことが推算できる。

四土面川支流源流部の崩壊の特徴とその原因

〈証拠〉によれば、本件土石流の引き金となつた土面川支流源流部のA崩壊に関し、次の事実が認められる。

1  A崩壊地の位置、崩壊の規模

A崩壊地は、別紙図面4記載の地点に位置するが、同所は、平瀬国有林五九林班3小班内を流れる土面川上流のA支流(土面川は四つの支流に分岐しているが、南端から二つ目の支流である。)の最上部の、河口より約4.6キロメートルの地点であり、標高は九〇〇ないし九五〇メートルであつて、崩壊は大規模で前記崩壊現象の分類上、断層、破砕崩壊に属する。

2  A崩壊の地質的特徴

A崩壊地は、風化花崗岩類で構成されているが、花崗岩の風化の程度が特に甚だしく、崩壊地の源頭部付近の花崗岩はかなり破砕されている可能性があり、かつ、節理の流れ盤の状況下にあつて崩壊を発生し易い地質条件下にある。また、ここにはモンモリロナイト等の粘土鉱物の存在が確認されるが、この粘土鉱物は含水し易い反面、排水しにくく、含水すれば膨潤してさらに練り返されることによつて、その剪断抵抗等が極度に低下される性質がある。さらに、A崩壊地付近には森林の伐採前に発生したと認められる古い崩壊の残留土が残されている。

3  A崩壊地の地下構造

A崩壊地は、その地質が崩壊地中腹部母岩露頭を境として、その上方部と下方部に二分されていることから、地下水の賦存形態も極めて微妙で複雑な形となつている。また、花崗岩母岩の構造線によるずれが存在し、この構造線を中心として裂罅状の地下水圧が発生する可能性がある。崩壊跡地下方部においては表層より約五ないし七メートル付近にかけて旧い崩壊の崩積土が堆積しているが、この崩積土はさらに深部からの地下水により深部は含水し低比抵抗体となり上層部は高比抵抗体となつている。崩壊地中腹部母岩露頭より上方部は別の独立した滞水層を保有していて、これは崩壊前地表面より五ないし六メートル下方部に位置するが、さらに標高の高い位置まで伸びている。

4  A崩壊の原因

A崩壊は、右滞水層が降雨の時点で大きな地下水を形成させることに伴い間隙水圧の異常上昇を起こしたことが直接的な原因と認められ、加えて豪雨時の異常間隙水圧によつて、動力的に脆弱化されて風化の進んだ土体が崩壊し、下方部の崩壊土の一部を巻き込みながら崩落したことにより発生したもので、いわば地質的な輪廻に達していたためであり、林木の伐採は関係がないものと判断できる。

五土面川における土砂生産、流送、堆積について

〈証拠〉によれば次の事実が認められる。

1  土面川の崩壊状況

土面川流域は、支渓毎に四つに区分されており、起伏の急峻地形地帯は殆んど国有林で占められ、他に崩壊地はないが、崩壊面積は、旧崩壊0.9ヘクタールを含めると合計3.5ヘクタールであつて、全区分面積365.2ヘクタールに対する割合は約一パーセント、全流域面積五〇〇ヘクタールに対する割合は約0.7パーセントである。一般に花崗岩類の風化地帯の豪雨による崩壊面積率は、2.5ないし4.5パーセントの値を示すことが多いが、この意味では土面川流域の崩壊面積率は寧ろ少ない方である。したがつて、後記2ないし4の如く、本件土石流により相当多量の土砂石が土面川を流下したが、それは林木の伐採とは直接関係のないA支流の地質的及び地形的要因によつてもたらされた堆積土砂石や渓床渓岸の浸食によつて生じた土砂石であると判断される。

2  本件土石流発生の原因となつた

渓流堆積土砂石について

A支流の源流部から土面川本流との合流点よりもやや上流部(別紙図面4記載の湾曲点)までの間、ジョイント節理が非常に発達しており、右岸が流れ盤(傾斜方向に対して同一の方向の節理をいう。)の状態で、左岸は逆に受け盤(傾斜方向と逆の方向の節理をいう。)の状態でいずれも岩崩壊が発生している。またこの節理に沿つて局所的に風化した個所があり、本件災害発生当時、これらの風化によつて生じた細粒土砂石が崩落岩塊とともに相当量渓床に堆積していたものと判断される。これらの堆積物は気温の変化、結永、風雨、林木の根圧などによる、長年にわたつての節理崩壊、風化の進行に基づき蓄積されたものであり、またA支流の両岸が切り立った断崖になつていることも加わつて、森林によつても防止することができず、右の渓床の堆積土砂石と林木の伐採とは関連がうすいものと考えられる。

3  本件土石流の発生と消滅

前記五4のとおり発生したA崩壊が大量の水を含んでその下流の前記2の不安定堆積土砂石の中に突入し、一五ないし二八度の急勾配をかけ下っていくうちに水と石礫の衝突現象を起し、相対密度の小さな高濃度の混合物を形成して土石流となり、前記2の、途中の渓床の不安定堆積物をまき込み、溪床溪岸を浸食しながら肥大していつた。そしてA支流から傾斜のより緩かなB地点付近から次第にエネルギーを失い、河口から二三〇〇メートルのC地点ないし一五〇〇メートルの地点までの区間においてフロント部が解体されて消滅した。

4  土面川の土砂流送の特性

土面川の溪床断面図である別紙図面4記載のAB区間は溪床堆積物が局所的な凹部を除いて殆んど流送され、溪床母岩が裸出損摩している状況であり、土石流の発生流下の地帯であつたことを示している。林業土木コンサルタンツで実測し推定した土砂石量は、山腹崩壊し流出した土量二〇〇〇立方メートルを含め、約三万八〇〇〇立方メートルの土砂量が同図面記載のC地点を通過し、C地点付近で約三万六〇〇〇立方メートル溪床に堆積し、C地点以降の溪床溪岸浸食量が約一万九〇〇〇立方メートルであり、合わせて下流へ二万一〇〇〇立方メートルが流送されたことになつている。これによると、C地点以降の地帯は、かなり古い時代から堆積帯としての様相を呈していたことが窺われ、同図面記載のB地点以降は、いわゆる土石流の停止勾配区間であることが分かる。すなわち、上流よりB地点までは急勾配でその距離的な変化も大きく、B地点以降は勾配も緩でその距離的な変化も小さくなつており、B地点までが土石流の発生及び流送地帯となり、B地点以降が停止地帯となる。土面川河口から一三〇〇メートルないし二三〇〇メートルの区間に土砂石の堆積区間があるが、これは土石流のエネルギーが緩和され土砂が堆積した区間とみなされ、この区間で前記のとおり土石流のフロント部は解体され、そのエネルギーも消滅したと推認できる。さらに、河口から六〇〇メートルないし一三〇〇メートルの区間は、流水の掃流力理論によつて土砂が洗掘又は堆積を繰り返しながら流送され、二〇〇メートルないし五〇〇メートルの区間では洗掘が行われ、二〇〇メートルより下流地帯に土砂の堆積が行われたと考えられる。

5  土面川下流帯の溪床堆積石礫の構成

土面川下流帯における堆積石礫には必ずしも大径石の存在は認められず、中流部の両岸帯に旧い押出堆積が再浸食され大径石の露出した状況はみられるが、これが本件土石流によるものとの判断はできない。別紙図面4記載のE地点における橋梁が破壊されなかつたことからすれば、下流地帯を流下した最大石礫径は、最大限一メートルと推定できる。また、同図面記載のC地点付近より上流部においては、溪床等に侵入した植生等が一木一草に至るまで洗掘され、石礫等もかなり損摩された状況が認められるが、C地点より下流部においては草木等が局所的に残留している。

6  本件災害時における土面川及び永田川の流量と下流の氾濫との関係について

(一) 前記三2のとおり土面川及び永田川における昭和五四年九月二六日から同月三〇日までの降雨ハイエトグラフは、右両河川流域の高度と小杉谷からの距離に照らし、小杉谷のそれに類似するものと考えられるから、小杉谷の降雨ハイエトグラフを基本として、土面川及び永田川のハイドログラフ(流量レートの時間的変化をグラフに表現したもの)を推定しうる。

そこで、先ず、小杉谷の降雨ハイエトグラフから小杉谷における推算ハイドログラフを誘導し、それと併わせて観測ハイドログラフを示すと別表8のとおりとなる。同表の右端列の観測流量は小杉谷で観測された実際の値である。これをみると、観測流量が推定流量を上回つているが、このことは、小杉谷流域上流の降雨量が小杉谷観測所での測定結果よりも大きな値であつた、つまり小杉谷の下流域よりも上流域の方が多量の雨が降つたものと推定される。

次に同様の方法により小杉谷の降雨ハイエトグラフから土面川、永田川のハイドログラフを誘導すると別表4、5が得られる。しかし土面川及び永田川においては観測流量が得られていないから、推定流量を実際の値に近づけるため、土面川の推算ハイドログラフに、小杉谷の観測ハイドログラフの推算ハイドログラフに対する比率を乗じて補正すると別表6の値(補正された土面川及び永田川の推定ハイドログラフ)が得られる。

(二) 右別表6によると、土面川においては九月二九日一四時頃から増水が始まり、一五時三〇分頃からは毎秒四〇ないし五〇立方メートルの凹凸を示しながら二二時に達し、同時刻頃から急激に増加し、同月三〇日の二時三〇分ないし四時頃に毎秒一一〇立方メートルとピークに達し、それ以後は減水したことが認められる。

一方、土面橋付近の通常の疎通能力は毎秒一四二立方メートル、土砂が0.5メートル堆積した状態では毎秒一一〇立方メートル、一メートルでは七八立方メートル、1.45メートルでは五三立方メートルであることが認められるところ、毎秒四〇ないし五〇立方メートルの流量に達すると、水流が土砂を流送しうる能力を保持するに至るから、二九日の一五時三〇分頃から二二時ころまでの間に下流に土砂が流送され、折からの満潮(二三時五六分)にかかつて、土面橋付近で約1.5メートル以上堆積された。したがつて三〇日一時三〇分頃の流量は毎秒約九〇立方メートルであつたから、この時刻には、土面橋付近の水流は、疎通能力を超え、越流したものと推定される。

(三) 永田川においては二九日一五時三〇分頃から二二時頃まで毎秒三〇〇立方メートルの凹凸を繰り返し、同時刻頃から三〇日の二時三〇分ないし四時頃には毎秒六六〇立方メートルと、土面川と同時刻頃にピークに達し、その後は減水したことが認められる。永田川下流の一番狭いところでその疎通能力は毎秒四一三立方メートルであるから、永田川も三〇日午前零時頃には氾濫状態にあつたものと推定される。

(四) また別紙図面4のとおり、永田川及び土面川の河口を蓋う形で砂州が発達しており、そのために満潮と干潮のピークのずれが生じ、上流からの流水が停滞したことも氾濫に力を添えたものと判断される。

六森林の伐採と山地崩壊

〈証拠〉を総合すれば、次の事実が認められる。

1  森林の公益的機能

森林は、木材資源の取得の場となると同時に、洪水流量、土砂流出を調節する治水機能及び利水(水源かん養)、自然保護、公害防止(酸素供給、炭酸ガス吸収、騒音防止)、気候調節(気温調節、蒸発調節、防風)の各機能を有するとされている。このうち、森林の治水機能、特に崩壊防止機能については、強風の場合、森林の樹幹が根系を揺り動かし、地盤を緩めることを理由に、寧ろ森林は崩壊を助長するという説もある。森林の機能を十分に発揮させるには晩幼齢期から満壮齢期の森林の状態を保持させることが必要であり、徒らに老齢過熟林に導くことのみが水保全、洪水調節、土砂保全のために有効とは限らない。このため、伐採、造林の繰り返しが必要であるが、これには技術的な問題がある。断層、破砕帯等が確認され大崩壊の発生が予測される流域や表面浸食が加速度的に進捗する可能性のある流域等については、重要地帯として保安林等の指定が行われ伐採制限等の規制が行われているが、それ以外については伐採搬出費又は造林費との関連もあつて一般的な経営方式に準じて伐採が行われているのが現状である。右の重要地帯の判定は、災害歴や地質、地形条件の調査によつて行われるが、防災上からみた日本の弱線地帯は殆んど無限の状態に近く、現実的に全地域を精密調査をするのは極めて困難な状況にある。

2  屋久島の林業

屋久島の森林は、一七世紀の中ごろから本格的な伐採が始められ、以後約二〇〇年に亘つて継続されたが、昭和三〇年代半ばから高度経済成長の進展とともに木材供給量の大巾増加がはかられ、屋久島国有林にもその影響が現われた。昭和三三年の生産力増強計画により年平均標準伐採量が7.6万立方メートルに、さらに昭和三六年には九万立方メートル、昭和四二年には17.5万立方メートル、昭和四四年には二〇万立方メートルへと急激な増産が実施された結果、屋久杉の減少及び幼齢林の出現という問題が生じた。特に、屋久島国有林の五分の一を占める二種林(経営経済林)では低質広葉樹のイスノキ、タブ、シイなどを皆伐し、跡地を杉の人工林化するという方針の下で、屋久島森林開発株式会社などに立木処分され、これらの業者によつて活発な伐採が行われた。右のような状況の下で、昭和五二年一月、熊本営林局により第三次地域施業計画書(昭和五二年四月から昭和六二年三月までの施業計画)が作成されたが、この中で、(一)国有林の伐採、更新につき、杉天然林地帯の伐採はできるだけ皆伐面を縮小した天然林施業を行うこと、第三種林は生産力の低い赤色土、崩壊浸食を受け易い花崗岩の深層風化地帯あるいはホルンフェルスの分布域であり大面積の樹種更改を避けねばならないこと、今後の拡大造林にあたつては適地を考慮のうえ小面積皆伐を行うこと、(二)治山治水につき、森林の伐採その他の影響により河川の水質低下、流送砂礫の増大が懸念されるため、保安林の整備について慎重に検討するとともに、若干の試験地を設けて伐採による流量、流送土砂量その他の影響を測定するよう考慮すべきこと、過去の伐採更新地内での崩壊発生地域には治山工事を実施する必要があること、(三)自然保護につき、屋久島の天然林は世界的に貴重なものであるから、学術研究などのため保護するには、屋久島の海岸線から山頂に至る植生を連続して幅広く残す必要があること等が提言されている。

右施業計画に基づき、伐採箇所が決定され、材木の状況等の現地調査を経たうえで伐採の順序や伐採跡地への植林計画が定められた後に具体的な伐採がなされるのが通例であり、宇平瀬国有林五八、五九、六〇林班を含む屋久島の国有林の伐採計画も右の手続に従つて実行された。

3  山地崩壊発生状況

昭和二二年、昭和四四年、昭和五二年、昭和五五年の各空中写真に基づく計測及び現地調査の結果によれば、土面川流域における山地の崩壊状況は次のとおりである。

(一) 昭和二二年から昭和四四年までの期間(以下「第一期」という。)

昭和二二年現在における崩壊個数は一五で、いずれも非伐採区に存在し、崩壊面積約二六五二平方メートル、全面積に対する崩壊面積率は0.07パーセントである。右崩壊個数のうち、一三箇所が昭和四四年までに復旧され、二箇所が残存したが、昭和四四年までに新たに一四箇所の伐採区及び非伐採区に七箇所ずつ発生した。右新規の崩壊の面積は約二四四三平方メートルであるが、伐採区のそれは一〇八五平方メートルで、非伐採区のそれは一三五八平方メートルであつて非伐採区の崩壊面積の方が広い。

(二) 昭和四四年から昭和五二年までの期間(以下「第二期」という。)

この期間内に新たに発生した崩壊は計四七箇所であり、伐採区に四六箇所、非伐採区に一箇所と伐採区の崩壊が非伐採区のそれを大きく上回つている。この期間における伐採面積253.71ヘクタールと伐採区における崩壊面積七六三五平方メートルから崩壊面積率を算出すると、約0.3パーセントとなる。

(三) 昭和五二年から昭和五五年までの期間(以下「第三期」という。)

この期間内に新たに発生した崩壊は計一一二箇所であり、伐採区に一〇二箇所、非伐採区に一〇箇所発生していて、伐採面積250.04ヘクタールに対する伐採区における崩壊面積二万一七〇七平方メートルの比率は約0.87パーセントである。

右のように第一期ないし第三期における新たな崩壊を比較すると、第三期における崩壊が目立つて多いが、これは降雨条件が重要な要因となつているものと推測される。伐採区において伐採に関係なく発生したと認められる崩壊は、第三期においては二二箇所、九四八三平方メートルと推算されるので、伐採によつて影響されたと判断しうる崩壊は八〇箇所、一万二二二四平方メートルとなるが、伐採と関係のない崩壊は概して崩壊深が大きく、伐採と関連した崩壊は浅層崩壊となり、その深さの比は三対一程度となるので、これを前提に崩壊土量を概算すると、全崩壊土量の約三四パーセントが伐採によつて影響された崩壊土量とみなすことができ、六六パーセントは森林が存在していたとしても当然発生したと予測しうる土量である。右は推算値であるが、崩壊形状等の現地踏査の結果によると、伐採区において浅層崩壊が八二箇所、一万三一九一平方メートルで地質要因のみによる深層崩壊が二〇箇所、八五一六平方メートルと算出され、これを土面川流域全体についてみると、森林伐採に影響されたと判断される崩壊が八二箇所、一万三一九一平方メートルとなり、地質要件による崩壊が三〇箇所、一万二八八三平方メートルとなる。

以上、一ないし六によって認定した事実を前提に、本件災害の発生原因を検討する。

森林には洪水流量や土砂流出を調節する治水機能があり、これを広く伐採することはこの治水機能を弱めて山地崩壊を起こし易いことは否定できず、現に昭和三〇年代半ばころからの屋久島における自然林の大幅な伐採行為により山地崩壊の個数が増大したことは前認定のとおりであるが、山地崩壊の原因は国有林等の森林の伐採のみならず、降雨等の自然的条件や地質的条件にも大きく左右されるところ、本件土石流の発生前の降雨状況は前認定のとおり、異常な豪雨であつたこと、本件土石流の発生源とみなされる土面川源流点A崩壊地の崩壊の原因がA崩壊地周辺に存在した滞水層が降雨により間隙水圧の異常上昇を起こしたことによるものであつて土面川流域の地質は風化花崗岩地帯に属しA崩壊は崩壊現象の分類上、深層崩壊と認められ、林木根系の崩壊に対する物理的効果は期待できないものであり、A崩壊とともに本件土石流発生の要因となつたA支流の不安定堆積土砂石は林木の伐採とは関係のない節理崩壊や風化によつてもたらされたものであること等を考慮すれば、本件土石流の発生は、被告の国有林伐採行為とは因果関係を有しないというべきである。したがつて、この点に関する原告らの主張は理由がない。なお、原告らは、被告が国有林の伐採につき必要な保護樹帯を設置していなかつたことが、本件土石流発生の一因をなす旨主張するが、〈証拠〉によれば、土石流を捕捉し、そのエネルギーを緩和する意味では樹林帯の存在は重要な意味を有する反面、土石流の発生地帯に樹林帯を設置することは強大なエネルギーのため、寧ろ流木の多量の発生を生ずる危険性があること、一旦発生した土石流は強大なエネルギーを有し、樹林帯によりこれを阻止することは不可能であることが認められるから、仮に原告ら主張のように被告により必要な保護樹林が設置されていなかつたとしても本件土石流の発生は、流下を阻止しえなかつたというほかない。よつて、この点に関する原告らの主張も理由がない。

本件災害は異常豪雨により、土面川河口付近に疎通能力を超える多量の流水が土砂とともにもたらされ、しかも土面川と永田川のピーク流量が一致し、これに満潮が重なり、土面川及び永田川が越流氾濫を起こしたことによるものと認めるのが相当である。

第四公の営造物の設置、管理の瑕疵の主張について

原告らは、被告が本件災害前に土面川に設置していた治山ダムは、本件土石流によつて完全に破壊されたのであるから、土砂の流出防止機能を欠き、その本来備えるべき安全性を欠いていた旨主張するが、本来治山ダムは溪床の安定及び山脚の固定をすることにより山腹崩壊の防止を図るために設置されるべきものと解すべきうえ、前記第二の二3で認定のとおり、土石流はその発生を予見することは非常に困難であり、その予防も治山ダム等の設置によりある程度の被害の軽減はできるが、土石流の巨大なエネルギーを考慮するとこれも完全ではないのであるから、本件災害前に被告によつて設置されていた治山ダムが本件土石流の流下を阻止できなかつたとしても、これをもつて右治山ダムに本来備うべき安全性が欠けていたとみることはできないといわなければならない。したがつて、この点に関する原告らの主張も理由がない。

第五結論

以上によれば、原告らの請求はその余の点について判断するまでもなく、理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官下村浩藏 裁判官法常格 裁判官杉本啓二)

別紙原告別請求金額一覧表〈省略〉

別表1ないし6〈省略〉

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